無国籍問題やヤングケアラーの問題をミステリアスに描いた映画「市子」。
主人公の「市子」の壮絶な半生を描いている作品で、市子を演じる杉咲花さんの素晴らしい演技と共に話題となりましたよね。
そんな映画「市子」のラストシーンは意味深でどんな意味が込められているのか、市子はどうなったのかなどはっきりしない部分が多いんです。
また映画「市子」の原作や元ネタが、実際の出来事を基にしたノンフィクションなのか色々気になりますよね!!
今回は映画「市子」のラストシーンの考察や原作について紹介していきます。
ネタバレになる部分も多いのでお気をつけください。

映画「市子」のラスト市子は死んだの?
原作と映画の違いは?実話を基にしたノンフィクションなの?
この記事を読まれている方はこんな疑問を抱えているのではないでしょうか。
- 映画「市子」のラストシーンの考察まとめ
- 映画「市子」と原作の違いについて
- 映画「市子」は実話を基にしたノンフィクションなのかについて
映画市子のラストシーンの意味は?最後は死んだ?
映画「市子」のラストは意味深な終わり方をしています。
海から2人の男女の遺体が見つかったというニュースがテレビから流れる
市子の声で長谷川への想いを語りながら2人の出会いや過ごした日々が回想される
場面は変わり童謡の「にじ」の鼻歌を歌いながら歩く市子の姿が映される
このラストシーンに疑問に思う点はいくつかありますよね。
・市子は死んだのか
・市子はどうなったのか
・市子が1人童謡の「にじ」を口ずさむラストシーンは何を意味するのか
以上についての考察を個人的にしてみました。
市子は死んだのか
まず海に沈んだ車の中で発見された男女の遺体は市子なのでしょうか。
この映画は過去と現在の時系列や時間の流れが交差しながら進むので少々分かりにくいですよね。
結論から言うと、
では海で発見された男女の遺体は、
市子の全ての過去を知る「北秀和」
自殺願望のある肉親や友人もいない天涯孤独の「北見冬子」
以上の可能性が高いでしょう。
ニュースシーンで刑事が長谷川に電話をしているので、冬子ではなく市子と思いますよね。
しかしこの2人はおそらく市子が死を選ぶように巧みに誘導したと考えられます。
では理由は、
北秀和:「市子」としての過去を知る人物だから邪魔になった
北見冬子:市子が冬子としての新たな人生を得るため(=自分の新たな人生(身分・戸籍)を得るため)
そう考えられます。
冬子は友人もいない天涯孤独で、さらに自殺願望もある女性です。
成り代わるのはうってつけの人物ですよね。
そもそも冬子自体は命を断つ事を自ら考えていたのでこの自死を選ぶことは理解できます。
では北はどうなのでしょうか。
なぜ自らの命を投げ出してまで市子のなりすまし計画を手伝ったのか・・・。
(そもそも反対していたので余計に不思議ですよね)
それは、
市子は「悪魔」だから
義父にも北にも悪魔だと言われていますよね。
市子は地味で純粋に見えますが人を魅了し虜にしてしまう魅力を持ってます。
そして魅了した相手は自分の良いように使うような一面がありますよね。
(北はもちろん高校の彼氏や長谷川も魅了されていたように感じます)
北は市子の為に罪を犯したのに自分を置いて失踪し、やっと見つけた北に「自由に生きて」などと関係を断つ発言をしますよね。
しかし市子自身が失踪するときは、北の元を訪れ冬子には北の住所を教えたりなど、自分の都合のいいように利用し振り回しています。
そんな理不尽な接し方をされても北は市子の言う通りに動いていますよね。
完全に市子に魅了されているのは観ていれば一目瞭然。
そんな北に市子は、
私のヒーローなら私の幸せのために死んで
そんなふうに北を上手く誘導し冬子と一緒に命を断ったのではないでしょうか。
と言うのも北と市子の電話のやり取りで「市子:ウチのヒーローなんやろ?」「北:そうや!!」というやり取りもあります。
その後海に冬子と一緒に来てと言われた北は、言われた通りに2人で海に行きます。
魅了した北の感情や命すら上手く利用し新たな名前で生き続ける・・・。
それこそ「悪魔」ですよね。
邪魔な存在は消すというサイコパスな一面も持っている市子。
自分の過去を知る北も普通の幸せを望む市子の人生にとって邪魔な存在だと思った事でしょう。
もしかしたら自分の失踪に北を関わらせたのも、冬子と共に命を断つ(邪魔な存在を消す)計画の一部だったのかもしれません。
彼女は自分の人生において邪魔だと思う人物の命を奪ってきていますからね・・・。
(感情の欠落からくるある意味思いのまま動く純粋さと表裏一体だと捉えることも出来ますね)
とは言えあくまで個人的な考察となるので参考程度にお考えください。
市子はどうなったのか
市子が童謡「にじ」の鼻歌を歌いながら歩くラストシーンがながれます。
その後市子はどうなったのか気になりますよね。
「市子」としての自分は捨てて「冬子」になって新たに生きる
過去を知る北もいなくなり新しい「北見冬子」としての戸籍も手に入れたと考えました。
この世に「市子」はもういない・・・。
そう自分自身で「市子」を殺したとも言えますね。
もしかしたら本物の冬子の遺体は、市子のものだと判断させるような偽装もしていた可能性もあるのではないでしょうか。(※そう言った描写はないので個人的な推測です)
長谷川と過ごした家を出る時の表情からも何だかの決意が感じられます。
ですので長谷川とはもう会うことはないと個人的には推測しました。
と言うのも長谷川から離れたのは、
・自分の真実を知られたくない
・人の命を殺めた自分のせいで大切な長谷川に迷惑をかけたくない
そんな想いが隠れているようにも感じたからです。
魔性であり悪魔そしてサイコパス。
そんな一面とは別に純粋に平穏で普通の幸せを望み長谷川を大切に思っているのは、ラストの長谷川との写真を見ながら涙するシーンと、出会いから2人で過ごした日々の回想シーンからわかります。
そして決意したかのように涙を拭うシーン・・・。
きっとプロポースも浴衣も彼との思い出も全て市子にはかけがえのないない宝物だったのでしょう。
しかしその時点ですでに「市子」を捨てる決意をしていたのではないでしょうか。
2人の家に市子としての自分を置いていく・・・。そんな決意にも感じられました。
正直現実的に考えると、本物の冬子は病院にかかった事や何かしらの社会との関わりはあるでしょう。
警察が捜査していくと完全に逃げ延びることは出来ず、この先何年か後に冬子として生きる市子を見つける可能性は十分ありますよね。
この先ひっそりと「北見冬子」として人生を歩んで行くのでしょうが、それは決して幸せではないのではないかと個人的には思いました。
ラストシーンは何を意味するのか
ラストシーンの童謡「にじ」を歌いながら歩く市子ですが、どんな意味があるのでしょうか。
まずこの童謡「にじ」にはどんな意味があるのでしょう。
市子の「切なくも儚い希望や願い」が込められている
そして海辺を1人歩くシーンには、
市子の「孤独」「犯した罪や苦しみなど過去から逃れたい気持ち」「生きる(前に進む)という決意」を描写している
そのように感じました。
童謡「にじ」に関しては市子の母も歌っています。
それは妹の月子の命を市子が奪ったことを知った後のシーンです。
我が子(妹)を手にかけた市子に「ありがとう」と言い、キッチンでお皿を洗いながら「にじ」の鼻歌を歌います。
きっとその時の母親も童謡「にじ」に「明日への希望」や「辛い出来事を忘れたい気持ち(現実逃避)」、そんな感情があったように感じました。(壊れてしまいそうな自分を必死に堪える為とも捉えられる)
「にじ」の歌詞は、
ラララ にじがにじが
空にかかって
きみのきみの 気分もはれて
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
今は雨でも明日はきっといい天気になる。きっと明日は幸せな日になる・・・。
気分は落ち込む事もある・・。
でも明日はきっと気分も心も晴れて天気も晴れて、虹がかかるほど晴れやかな心と空になる。
幸せな日がいつかきっと来る。だから歩み続ける・・・。
そんな市子の切ない気持ちが込められているように感じます。
ただ願うのは普通の平穏な幸せ、その為に人を殺め利用し人になりすます。
その先に市子の描く幸せはないと言うのは市子自身も分かっているのではないでしょうか。
暗く悲しい過去
最愛の長谷川との短くも濃く本当に幸せだった過去
人の死を利用してのこれからの人生
2度と自分(市子)として生きられない人生
きっと忘れたくても忘られない逃げれない過去を背負い、この先の孤独を理解しながらも平穏な幸せを「にじ」の歌に乗せ願っていたと個人的には考察しました。
ラストの空は歌のように晴天なのに市子は1人進んでいく描写。
それは空は晴れやかでもその代償は孤独で歩むその先には思い描く幸せはない・・・しかしそれでも生きる事を選んだ決意。
そんな事を個人的には感じ取れたラストシーンでした。
観る人それぞれの考察が生まれるので、ぜひ自身の目で観て考察してみてくださいね^^
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映画市子の原作は「川辺市子のために」違いはある?
映画「市子」の原作は舞台「川辺市子のために」となっています。
映画と舞台では何か違いがあるのでしょうか。
監督もインタビューで答えていますが、
映画化にするにあって追加のシーンなど違いはありますが、基本的な流れは同じとなっています。
ではそんな中で印象に残る大きな違いはというと、
映画:市子が意図的に月子の呼吸器を止め故意的に命を奪う
舞台:恋人ができた事で介護が疎かになり結果市子の呼吸器の操作ミスで月子が亡くなってしまう
ここが1番の違いではないでしょうか。
他にもところどころ違いはあるものの、この違いは大きいですよね。
映画では寝たきりの月子の介護を市子は黙々と行った後、じっと月子を見つめ(覗き込み)表情は無そのもの・・・。
ただただ無表情に呼吸器を外し見つめ続けます。
その後母親が帰るまでアイスを食べるなど取り乱すこともなく、ただ淡々と過ごしている描写は市子の感情の欠落も表していますよね。
市子の置かれた環境の過酷さなどもひしひしと伝わってきます。
そしてそれと同時に市子のサイコパス感も凄い表されているなとも思いました。
市子と言う人物の真の恐ろしさやある意味での素直さ(邪魔なものは消せば良いという単純な思考)とも感じ取れるシーンとなっています。
映画の方がよりはっきりと市子の感情の欠落や異常さなどは描かれているように感じました。
映画市子は実話?ノンフィクションなのか
映画「市子」は実話を基にしているのでしょうか。
映画「市子」は舞台「川辺市子のために」を基に作られています。
ですので原作でもある舞台「川辺市子のために」は実話なのか調べたところ、
戸田彬弘監督がインタビューで答えています。
ただし自分の体験した出来事を少し意識して描かれたようですね。
その実体験とは、
監督が小学校2年生ぐらいの時に、同級生の名前(苗字でなく名前)が変わった事があった
当時は子どもで特に不思議に思わなかったが、触れちゃいけない雰囲気を感じてはいた
そう言った子どもの頃に見た貧困的な雰囲気は多少入っているかもしれない
(※部分的に抜粋)
以上のように語られていました。
ですのであくまで映画「市子」は完全オリジナルの「フィクション」となっています。
まとめ
今回は映画「市子」のラストシーンの考察や原作について紹介しました。
ラストシーンは、
・車で亡くなっていたのは市子の全ての過去を知る「北秀和」と自殺願望「北見冬子」
・市子は死んでおらず天涯孤独の「北見冬子」として今後生きていく
・ラストの童謡「にじ」の鼻歌には市子の「切なくも儚い希望や願い」が込められている
・1人歩いて行くシーンは市子の「孤独」「犯した罪や苦しみなど過去から逃れたい気持ち」「生きる(前に進む)という決意」を描写している
以上を個人的に考察しました。
また原作につては、
・原作とのストーリーはほぼ一緒
・違いは映画では市子が月子を故意的に呼吸器を外して命を奪った、舞台ではあくまでミス
・映画「市子」も原作舞台「川辺市子のために」も完全オリジナルストーリーでフィクション
フィクションでそこまで原作舞台と映画の違いはありませんでした。
ただし映画では故意的に月子の命を奪っていますが、舞台ではあくまで呼吸器の操作ミスで故意的ではありませんでした。
壮絶な過去を持ち時に人を殺め時に人になりすまし、それでも幸せだった頃のような平穏で普通の生活を夢見て、最後は市子としての自分を捨てでも「生きて行く」ことを選ぶ市子。
ただひっそり自分の過去や罪を背負いながら、童謡「にじ」の歌のように明日はきっと心も晴れて幸せになれると信じ歩んで行く・・・。
とても切なくも悲しく、そして残酷な市子の半生を描いた映画「市子」。
観た人それぞれ市子への感情が生まれる作品となっています。
どこか感情の抜け落ちた市子の残忍さも、彼女のミステリアスで惹かれる魅力の一部として描かれています。
観終わった後に市子を完全な悪として見れないのは、北や長谷川のように市子に魅了されているかもしれませんね^^
市子役の杉咲花さんの引き込まれる演技も必見です!!
まだ観ていない方は是非観てみてくださいね。
1度目と2度目では冒頭シーンの感じ方が大きく変わるので更に深く楽しめますよ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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